心に浮かび、かつ消えゆくよしなしごとが、永遠に消えてしまわないように、そこはかとなく書きつけてみようと思います。

2009年1月27日火曜日

大阪出張

24日・25日の週末を利用して大阪まで行ってきました。

当初は24日に大阪大学で開かれる某報告会に参加するのが目的でした。が、縁あって25日には日雇労働者の町として有名な、大阪の「あいりん地区」の見学にいくこともでき、なかなか充実した週末になりました。

たまには重い腰をあげてみるものですね^^

大阪大学で開かれた報告会はjaih-s(http://www.jaih-s.net/)という学生団体が主催したものでした。この団体、国際保健医療に興味のある学生が集まって勉強会を開いたり、途上国での実習の斡旋をしたりするなど、国際保健医療を志す学生のキャリアパス形成のお手伝いをすることを目的としています。(というのが僕の解釈ですが、正確・詳細な活動内容はHPを見てみてください)

立ち上げに友人が関わったということもあり、以前から興味を持っていました。ただなかなか予定が合わず、去年はイベントに参加する機会がなかったので、今年こそはと思っていたわけです。

報告会の内容は、ベトナム・ヨルダン・インドネシア・パキスタン・マダガスカルに赴いた学生による実習報告。

去年は部活や授業に忙殺され、とてもドメスティックな1年だったので、久々の途上国のお話はとても新鮮で刺激的なものでした。

中でも圧巻だったのが、ヨルダンの発表をしたOさん。本来は実習の報告をすべきところですが、隣国イスラエルのガザ攻撃に心を痛めた彼女は報告は早々にきりあげて(15枚のスライド中最初の1枚だけ!)残りの時間は、ガザの惨状をひたすら訴えていました。

胸の内にたまっていたものを吐き出すようにして話しだしたOさん。ガザで起こっていた戦闘に関してユダヤの歴史から始まり、中東戦争を経て、現在に至るまでの経緯を熱く語り20分あまりの発表時間の中にありったけの思いが詰め込まれていました。

「現状を知り、自分に何ができるかを常に考え、実行に移す」という姿勢って-かっこいいですよね。自分は最近、行動ができてないなぁ、と反省。

最後に板東先生という方がコメントをして下さいました。30年近く養護学校の教員をされていて、あるとき障害者といえばベトナム!と思い立ち、ベトナムへと旅立った先生。JICA専門家などを経て、現在はベトナムの障害者支援をするNGOの事務局長をしつつ、大阪大学大学院に学生として通うという異色の経歴を持っています。

忘れないうちに先生がおっしゃっていた話で印象に残っているものをメモしておきます。

*「国際協力」を受けたことがない日本人が「国際協力」をするのは非常に難しいことで、常に相手の気持ちに対するイマジネーションが必要である

*NGOの職員と子供たちとの間の緩衝材としての日本の若者の存在はとても大きい→若者のボランティアはwelcomeである

*短期間、定期的という形での効果的な国際保健医療協力も成り立ちうる→5年ほどで現地の信頼を得ることができた

*現地に長期滞在する際は常に「引き際」を考えておくべき→現地のオーナーシップ

*途上国の人との付き合い方→これ以上はダメというラインを自分の中で引いて、それを貫き通す


備忘録的に書いたのでぱっとみ何のことか分からないかもしれませんね。もし興味がある内容があったら、ぜひコメントしてください!もう少し詳しく説明します。

というわけで今日はこの辺で。「あいりん地区」に関しても後日、なにかかければと思います。

2009年1月21日水曜日

祝福 続

たった今、オバマ新大統領の就任演説が終わった。

宣誓の場面で言葉に詰まり、緊張をうかがわせたのが嘘のように、スピーチは堂々としていた。

原稿も読まず、聴衆を見渡すように、国民に話しかけるように、ゆっくりと。

クライマックスにはいささか欠ける内容だったが、でも間違いなく、

A new history has begun. This is the new generation.

そう思わせるスピーチだった。

こんなスピーチ、どうやったらできるようになるんだろ…

祝福

本名はバラク・フセイン・オバマ・ジュニア。バラクはスワヒリ語で「祝福された」という意味だそうです。

そう、いよいよオバマ大統領の就任演説の時間が迫ってきました。もちろん生放送で見るつもりです。

アメリカ初の黒人大統領。南北戦争、公民権運動と経て、Black Americanの人たちにとっては3回目の歴史的な大転換点と言えるのかもしれません。

はたして新大統領は国民に、世界に、そして神に祝福された大統領になることができるのでしょうか?

楽しみたのしみ。

以下、シカゴで行われた勝利演説より。

This election had many firsts and many stories that will be told for generations. But one that's on my mind tonight is about a woman who cast her ballot in Atlanta.

She is a lot like the millions of others who stood in line to make their voice heard in this election, except for one thing: Ann Nixon Cooper is 106 years old.

She was born just a generation past slavery, a time when there were no cars on the road or planes in the sky, when someone like her couldn't vote for two reasons: because she was a woman, and because of the color of her skin. And tonight, I think about all that she's seen throughout her century in America—the heartache and the hope, the struggle and the progress, the times we were told that we can't, and the people who pressed on with that American creed:

Yes, we can.

At a time when women's voices were silenced and their hopes dismissed, she lived to see them stand up and speak out and reach for the ballot.

Yes, we can.

差し入れ

今日、部活の同期10人で数日後にテストを控える先輩に「差し入れ」に行ってきました。

体育会系の部活に入っていると、理不尽な伝統だったり、羽目を外しすぎる飲み会だったり、厳しい上下関係だったりに辟易することも多々ありますが、この「差し入れ」の伝統はなかなか気に入っています。

今から半年ほど前、初めての大きなテストを翌日に控えたその夜に、突然、部活の先輩からメールが来ました。

「今どこにいる?」

なんでそんなこと聞くんだろう、まさかこれから飲み会とかじゃないよなぁ!?などと思いながら、家にいる、と返信をすると今度は電話がかかってきました。

「今、Soの家の近くにいるけん、ちょっと遊びに行くわー。」

いやいや、明日試験なんだから勘弁してよー、と思っていると、まもなく玄関のチャイムが鳴りました。

少し憂鬱な心持でドアを開けると、そこには2年から4年までの先輩が5,6人。ちょっと酔っぱらっているようです。

「ちょっとあがっていい?」

言うなり、ぞくぞくと部屋に入ってきました。ほんと、何で突然、と思っていると、先輩の一人が、

「1年生、あしたから試験やんな?今激励に皆のいえまわってるんよ。」

あ、そういうこと!それにしてもみんなのところ回るってすごいな…

「○○と××はファミレスで一緒に勉強してるらしいから、一番最後に行く予定だよ。」

なんと、ファミレスにまで行っちゃうんですか。なんと徹底していること。一通り世間話を終え、テスト勉強の進捗を聞き終えると、

「これ皆からの差し入れだから、試験頑張りっ!」

渡されたビニール袋には、チョコレートやコーヒー、カップラーメンなど追い詰められ疲れている試験直前にとっても嬉しいちょっとした食品たちが詰め込まれていたのです。

特に長居するでもなく、差し入れを渡すと先輩達は次なる目的地へとすーっと消えていったのでした。

最初にメールをもらった時に、えーっと思っていた自分はすっかりどこかに行ってしまい、翌日のテストに向けてなんだか力がみなぎってきました。いいなぁ、これ。ちゃんとお返ししなくちゃな。


そんなわけで、この「差し入れ」のお返しを先輩にする機会をずうーっと待っていたわけです。

一人ひとり何が好きかなど考えながら買い出しをし、皆で袋に仕分けして、先輩の居場所をメールで確認。自宅にいる人もいれば、学校の図書館や友達の家で勉強している人もいました。

皆、必死で勉強している姿に、自分たちも来年・再来年は試験で苦労するんだろうなぁと思いつつ、差し入れを受け取った時の先輩達のてれたような笑顔にちょっぴり心が温かくなったのでした。

2009年1月17日土曜日

ちぇ

最近、医師であり、キューバ革命の立役者の一人となったチェ・ゲバラの半生を描いた「チェ~28歳の革命」という映画が公開された。ご覧になった方はいるだろうか?

学生闘争が歴史上の出来事となってしまった今、知っている方は少ないかもしれないが、彼はかつて「革命」を夢見る若者たちの間で絶大な人気を誇っていた人物である。この「革命」とはつまり貧者の救済であり、階級の打破であった。

映画を見て以降、彼の思想と人間性に惹かれ、本を読み込んでリサーチをしようとしていた、その矢先に思わぬ事実に遭遇した。

なんと彼は熱心なラグビー愛好家だったというのだ!!!

南米はアルゼンチンに生まれ育ち、WTB/CTBとして華奢な体型ながらひじを高く張ったタックルでぶち当たった。医学生時代はラグビー雑誌の編集に熱中していたと言う。

曰く「いつかラグビーによって命を落とすようなことになったとしても、僕はプレーを愛しているんだ」

父曰く「エルネスト(チェの本名)は、ラグビーから学んだチームスピリット、規律、敵への敬意を忘れることはなかった」

またラグビーのアルゼンチン代表はこうも言っている。

「チェは、ゲリラ戦に我々のスポーツから学んだ戦術を用いていた。私にとってアルゼンチンのラグビーの象徴なのです」


歴史的な革命家をも惹きつけてやまないラグビー…モラルとスピリットにあふれるラグビー…ゲリラ戦にまで応用できてしまうラグビー…

うーむ。ラグビーは想像以上に奥が深いらしい。どこまでも深みにはまっていきたいと思う今日この頃であった。


(引用の出典は藤島大さんのエッセイです)

2009年1月16日金曜日

限りなく透明に近いブルー

村上龍さんの小説のタイトルを拝借しました。

今朝の宮崎の気温は摂氏2度。南国宮崎といえども冬はとっても冷え込みます。朝起きて、冷え込んだ部屋を少しでも暖めるためにカーテンを引くと、そこには雲ひとつない淡い青空が広がり、自然と「限りなく透明に近いブルー」というフレーズが浮かんできたのでした。

ふと空を見上げると、この空は世界中にくまなく広がっていて、もちろん、アフリカにもイギリスにもつながっているんだよなぁ、と心がトリップしてしまうことがあります。そして、必ず思い出すのが、谷川俊太郎の「朝のリレー」。


カムチャッカの若者が 
きりんの夢を見ているとき
メキシコの娘は 
朝もやの中でバスを待っている
ニューヨークの少女が
ほほえみながら寝がえりをうつとき
ローマの少年は
柱頭を染める朝日にウインクする
この地球では
いつもどこかで朝がはじまっている

ぼくらは朝をリレーするのだ
経度から経度へと
そうしていわば交替で地球を守る
眠る前のひととき耳をすますと
どこか遠くで目覚時計のベルが鳴ってる
それはあなたの送った朝を
誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ


すごく好きな詩の一つです。小学校か中学校の国語の教科書に載っていた気がするので、知っている人も多いのではないでしょうか?

朝をリレーするなんて、素敵な表現だなぁと思いました。すごい想像力。そして、みんなが交代で地球を守っている…(子供の頃は、きりんの夢とか、朝もやとか、柱頭にウインクとか、イメージが鮮明に描ける感じがとても気に入っていました。朝のリレーだなんて、おかしなこというなぁって。)

こうして日記を書いている今もどこかで朝が始まっているんですよね。皆元気にしてるかなぁ。

さて、発表の準備をせねば…ダッシュ(走り出す様)

2009年1月15日木曜日

出席

他の大学のことはちょっと分からないのだけど、僕の在籍している大学では単位取得のために出席率75%が必要であり、したがって全ての授業で原則、出席をとる。

方法は様々で、出席票に名前を書いて提出するだけのものから、感想文の提出をもって出席にかえるもの、中には医学部1学年100人全員の名前をいちいち呼ぶ先生までいる。

先生が方法を工夫するのには当然理由がある。放っておくと多くの学生は友人に「代筆」を頼み、ゴーストスチューデントとして実際には授業に出ていない、という事態が多発するのである。

初めは出席票にサインするだけだったのが、あまりに学生が休むので、直接点呼に変えた先生もいれば、代筆しても筆跡チェックしてるからばれますよと脅す先生や、出席カードの裏にこっそり通し番号を書いておいて、使いまわすとばれるようにしている先生がいたり。

肝が据わっているというかなんというか、それでも休む学生は休むし、非常にタチが悪いのは、出席を取った後に教室を退室していく子たちである。

退屈な授業があるのはわかるが、それでも先生なりには準備をしてきているのだから、それに対する最低限のリスペクトは必要なのではないか?自分が教える側で、ぞろぞろと生徒が退室していったらどんな気持ちだろう。

その授業の先生は諦めの境地に達しているのか、寂しそうに「なんか、今日もあからさまに出て言ったなぁ。これだけ目立ってやられると何といっていいのやら」とつぶやいただけだったが…

医学部は学年の全員が高い確率で将来みな医師になるという非常に特殊な環境である。カリキュラムは専門学校的であり、退屈なことも多いが、学んでいる内容は将来、直接・間接の差こそあれ、確実に臨床において役立つものであり、必要なものであると思う。

それ以上に、医師が相手にするのは生身の人間であり、不用意な言い訳などできるはずもないとともに、「人の気持ちに対する想像力」は必要不可欠だと思う。

だからこそ、平気で授業を途中退室したり、マンガをよんだり、後ろで固まっておしゃべりしたり、そういう学生がいるとちょっと悲しくなる。

なるべくさりげなく指摘するようにはしているんだけど、なかなか難しいものです。学年最年長の自分には、もうちょっといい方向に皆を誘導する努力をする責任がある気はするのですが。

今日読んでいた「アジアの子どもたちに学ぶ」(池間哲郎)という本に「聞く」ことができない子供たち、感謝こそ生きる力、という項があり、無気力な日本の子供達と、学ぶことに貪欲なアジアの途上国の子供たちが対比されていた。また「自分を生んだのは親だから、親が大学に行くお金を出すのは当たり前」という意見が紹介されていて、愕然としてしまった…

途中退室を含む大学での学生たちの授業に対する姿勢と重なり、うーむと思わず考えさせられてしまいました。一度大学を卒業しているからこそ見えてくるものを、どうやったらみんなとシェアできるのだろうか。

2009年1月13日火曜日

がざ(2)

以下、ガザのある病院からの報告です。


(見出し)ガザ地区の市民犠牲者
「私たちは次から次へと切断手術を続けている」

(記事リード)イスラエルの地上進攻の開始以来市民の犠牲者の数は急増している。ノルウェー人のマッズ・ギルベルトは、現在ガザ地区に滞在している唯一の西側の(欧米の意味)ふたりの医師のひとり。ギルベルトはドラマチックな報告をした。

インタヴュー;トーマス・アウ゛ェナリウス記者

(人物解説)マッズ・ギルベルト(Mads Gilbert)61歳、は麻酔医でノルウェーのトロムソ大学教授。彼は新年から同僚の同僚の外科医エリク・フォッセ(ErikFosse)医師とともにガザ市のシーファ(Schifa)病院で手術をしている。ふたりはNorah (原文;Norwegian Medical Solidarity Organization Norah)の会員である。

(インタヴュー始まり)
南ドイツ新聞(以下SZ);ギルベルト博士、ガザの情況はどうですか。

マッズ・ギルベルト(以下MG);今夕の情況はドラマチック以上のものだ。激しく爆撃されている。この48時間は大変に厳しかった。

ガザ市の野菜市場への攻撃で多数の死傷者が出た。今日病院に運ばれた210人の負傷者の内だけでも35人が救急部門で死亡した。死者の内で18人が9歳以下の子供たちだ。

私たちは次から次へと切断手術を続けている。廊下は切断手術を受けた患者でいっぱいだ。私はすでに手術をいくらしたか数えられない。

SZ;犠牲者のうち子供と女性はどれくらいでしょうか。

MG;今日、私はひとりの子供の手を切断手術した。この子は家族のうち11人を失っている。私たちのところに九ヶ月の赤ん坊がいるが、この子の家族は全員がイスラエルによって殺された。市民の犠牲者の数は急激に増加している。月曜日の晩には死者は540人、負傷者は2550人だった。死者の30パーセントと、負傷者の45パーセントが女性と子供だ。これまでで、子供の死者は117人、負傷者は744人だ。

SZ;救助隊の作業はどんなに危険ですか。

MG;今日は救急車二台が襲撃された。二人の救助隊員が殺されたが、彼らは狙われて攻撃されている。シーファ病院の隣のモスク(イスラム寺院)が空襲された。そのため病院の窓ガラスがすべて割れてしまった。今は外の気温は摂氏7度だから患者全員が震えている。医師や看護人ももちろん同じだが。これら全てが理解を絶することだ。

SZ;病院の職員の情況はどうでしょうか。

MG;ひとつだけ強調したい。この病院には現時点で、医師、看護人、ボランティアが50人いる。私たちは爆撃音を聞きながら、負傷者を満載した車を待っている。私はこれまでに、彼らパレスチナ人の医師たちと助手たちほど献身的な働きをする人間を見たことがない。

SZ;あなたはハマスの戦闘員も治療しますか。

MG;その質問は適切ではない。私たちはここで医師として誰でも治療する。わたしたちはイスラエルの兵士にもそうするだろう。しかし、私は何百人もの患者を診たが、その内でハマスの戦闘員はたったふたりだけだった。

SZ;何が最も緊急に必要でしょうか。

MG;とりあえず緊急なのは、爆撃を停止し、イスラエルが境界の通路を開き、食料と燃料をガザへ運ぶことだ。

SZ;あなた自身は安全ですか。

MG;150万人のパレスチナ人が、この世界最大の牢獄に閉じ込められている。彼らは恐れてはいない。なぜ私たちが恐れるべきだろうか。

SZ;あなたはどのようにしてガザ地区に入り込んだのですか。

MG;私たちは元旦にラファ(Rafah)経由で入って来た。ノルウェー政府がエジプトの指導部に非常に大きな外交圧力を掛けたのだ。そのおかげで入って来れた。私はなぜ他の西側の医師たちが来ないか疑問に思っている。世界はここで何が起こっているかを見ることが出来ない。私たちだけが西側の代理人だ。私たちは、援助すべき医師なのだ。それと同時に私たちは世界中のメディアに電話で情報を伝えなければならない。同僚とここへ来ていらい、私たちは時間を忘れて働いている。あの音が聴こえますか。また爆撃されている。ここで話しを終わりにしなければなりません。

(インタヴュー終わり。翻訳以上)
「訳責;梶村太一郎/ベルリン」

がざ

今、あさって提出のレポートを書いています。

タイトルは

"Development in Africa -Taking into Consideration its Distinct History of Exploitation-"

大学の英語の先生が南アフリカ文学の専門家ということもあり、授業では南アフリカをはじめとするアフリカ諸国のヨーロッパ列強による搾取の歴史を学びました。

そんな中改めて思ったのが、「アフリカは貧しくてかわいそう」「アフリカだけがミレニアム開発目標を達成できそうになく、全く困ったものだ」などと言われるけど、そもそも誰のせいでアフリカは貧困のどん底に陥れられたんだ!ということでした。

開発や国際協力の文脈では西欧諸国のアフリカへの援助は美談や人道主義の名のもとに語られがちで、ヨーロッパ諸国による何百年にもわたるアフリカ搾取の歴史にはほとんどだれも触れることがない。そこにこそ、現在のアフリカがある根本原因が潜んでいるかもしれないのに。

ならば、アフリカの歴史をじっくりと振り返った上で、なぜ未だにアフリカは貧困から抜け出せられないのか、問題解決へのヒントを導き出せないかと今回のエッセイを書きだしたわけです。

ただ、アフリカといっても当然一枚岩ではなく、旧宗主国によってもその状況は多分に異なる。そんな中でどうやってある程度普遍的な結論をもってくるか、少々苦戦しています。

話は変わるのですが…、

使える資料はないかと、色々とネットで検索しているうちに、なんか今のガザの窮状についてのホームページばかりネットサーフしている自分がいました。

「アフリカにおける利権を手放さないために、植民地独立後も新植民地主義という形で経済を通してアフリカの国々を支配していた欧米諸国」と、「イスラエルとの関係と利権のために国連安保理においてガザ停戦決議を棄権したアメリカ」がなんだかダブってしまい、根っこでは変わらない覇権国の態度を思うとなんだか悲しくなります。

現在、ネット上で「ガザの封鎖解除を求める署名運動」が行われているようです。「今、自分に出来ることを」と思っている人、ガザの惨状に心を痛めている人はぜひ下のブログをのぞいてみてください!

http://blog.livedoor.jp/share_jp/archives/51830773.html

2009年1月12日月曜日

ロシナンテス

今日の「情熱大陸」でアフリカはスーダンの村で医師として奮闘する川原さんが取り上げられた。

以下は、番組の紹介文である。

『医師 川原尚行 43才

未だ民族間の紛争が絶えないアフリカ・スーダン。政情が安定せずインフラの整わない村々には充分な医療施設もない。2005年、日本の外務省から派遣されていた川原尚行は、一医師として何か出来ないかと考え、勤めていた外務省を辞職、NGO「ロシナンテス」を立ち上げ、スーダンの人々の中へ飛び込んだ・・・・』

マスコミで働いている友達に「ロシナンテス」(http://www.rocinantes.org/)のブログを教えてもらったのがきっかけで、2年くらい前にこのNGOを知ることになり、以来いつか診療所見学に訪ねたいなと思って密かにチェックしていた。ので、今回の「情熱大陸」何度か見返そうと迷わず録画してしまった。


スーダンはウガンダのお隣さんだけあって、村の風景とか雰囲気はウガンダととっても似ていてちょっと懐かしくなった。自分が普段Moyoで接しており、スーダンへと帰って行った難民たちは、今この国で暮らしているんだなぁと感慨にふける。

でも違うのはイスラム圏であるということと、皆が思い浮かべる典型的なアフリカ人ではなく、どちらかというとヨーロッパ人(アラブ人?)に近い顔立ちをしているということ。スーダンはおおざっぱに分けて北部のアラブ人、南部の黒人、とアラブと黒人との混血の人たちに分かれるらしいが、この人たちは混血なのだろうか?

交わされている言葉はアラビア語で、「アッサラームアライクム。ワライクムッサラーム」とかかろうじて聞き取れる挨拶。昔ちょっと習ったアラビア語と、ウガンダのスーダン難民の人たちがしゃべっていたアラビア語がフラッシュバックした。

全然内容とは関係ないけど、川原さんのきている小倉高校ラグビー部のTシャツが気になった(笑)スーダンに会いに行ったらラグビー談議で花を咲かせられるだろうか?などと妄想したり。


見ながら、国際医療協力には色々な形があるけど、川原さんがやっているのが地元に最も密着した必要とされる医療の一つなんだろうなあ、と考えていた。同じ九州大学卒業の中村哲先生(『医者井戸を掘る』で有名な人)もまたアフガニスタンにおいて、地元に密着する形で十年以上も医療活動を続けている。ただ一方で、日本人である我々はあくまでも帰る国のある部外者であり、最終的には現地の人たちが自立して医療サービスも自給していかなければならない。この移行プロセスが最も難しい問題の一つであり、今後ロシナンテスと川原先生や中村先生がどのようにこの問題を解決していくのか、ひっそりと見守っていきたい。

他にも国際NGOに所属して、期間を区切って地元で医療活動をしたり、あるいは政府機関や国際機関に所属して医療行政に携わるという道も当然ありうる。でもそれがとやっぱり地元の人たち、患者さんとの距離が遠くなって、現場感覚を失ってしまう気がするんだよなぁ…

主権国家の行政に口出しするっていうのはとってもデリケートな問題で難しそうだけど。それでも、医師として途上国に赴いた人の多くは、現場でできることの限界を感じて、やがて行政へとその関心を移しているようである。やっぱりできることが多いのだろうか?やりがいがあるのかな?

だけどだけど、行政から入ろうとして、でもやっぱりもっと現場に密着して活動したい!!と痛感した自分にとっては、やっぱり川原さんにようにあくまでも現場にこだわって奮闘している人がいることに勇気づけられる。

何といっても現地には医者が足りない。これは間違いのない事実であり、サービスのギャップに入り込み、行政の不備を補うのが「人間の安全保障」であり、国際社会の中での先進国の果たすべき役割の一つであるとするのならば、やっぱり医者は現場にこだわるべきなのじゃないかな、と思った。

ちなみに縁あって今ちょっと勉強しているザンビアには医学部はひとつしかなく卒業生は1年に30名ほど。しかもエリート教育を受けた医師は欧米で働きたがり、へき地に行こうとしないというのが現状のようです…

2009年1月11日日曜日

新春初だいこん

ウガンダにいたころ、現地の農夫の友人にこう言われた。

You've come from the country of technologies but do you know how to make the food you are eating every day?

アフリカに行く前に「アジア学院」というNGOに数日泊まり込み、即席で知識だけは身に付けたものの、実際に畑に足を踏み入れたことのなかった自分…。

Uhmm, no. Actually, I DON'T.

なんだか恥ずかしかった。日本に帰ったら、絶対に農作業を経験しておこうと思った。普段自分の口に入っている食べ物。それなしでは生きていけない食べ物。それがどのような人の手で、どのように作られているのか、見て考えて行動するべきだと思ったのである。

そんなわけで、宮崎に来て「必ずやりたいことリスト」に農作業がめでたくランクインすることになった。

そして先日、年末に引き続き、2009年初の農作業へと繰り出した。縁はどこに転がっているか分からないもので、部活の先輩の紹介で、大根の収穫作業のバイトをさせてもらえることになったのだ。

種類は練馬大根。のちのち沢庵になるあれである。収穫の作業は、「曳いて・きびって・干して・おろして・分けて」という5工程に分けられる。

初日、期待と不安を胸に畑にバイクで向い、大将に挨拶をすると、「じゃあさっそくだけど、むこうの大根から曳いといてくれる」と言われた。「曳く?」ってどういうことだろうと頭の中で「???」をいくつも作っていると「ああ、ごめんごめん。大根を抜いてってことね。」言い直してくれた。普段学校ではあまり生粋の宮崎弁に触れることがないため、訛りといい、イントネーションといい、さながら外国語の様な言葉を話す農家のおじちゃん、おばちゃん、じいちゃん、ばあちゃん。東京弁・宮崎弁のバイリンガルへの道はまだまだ遠いなと実感した…

まあ、いずれにせよ、そんなこんなで農業デビューができたわけです。作業の途中、ミカンやせんべいをつまみ、お昼は畑でおばちゃん手作りのおにぎりやカレーライスを食べる。あたり一面畑で、空を見上げると真っ青な空が360度広がっている…とっても癒される瞬間です。

お世話になっている大将の畑では、12月/1月に練馬大根、3月に青首大根、夏にたばこの収穫があるらしく、勉強から離れて、汗をかく楽しみができてなんだかハッピー。

今度アフリカに行ったら、日本では大根収穫してたんだよ、って言えるなぁ(笑)

I've been making Japanese radish! Let me show you one...わーい(嬉しい顔)

2009年1月9日金曜日

やまば

一年生の山場といわれていた発生学のテストの結果が今日出た。

結果は…○ でした!!

試験後の手ごたえはいま一つで、この科目、去年は医学科100人
中50人が落ちたと聞いていたので、正直今回は不合格を覚悟し
ていた。

不合格者には1月中に再試があるということで、結果発表を今か
いまかと待っていて、ここ数日はなんだかソワソワどきどき。

さながら合格発表を待つ受験生の気分である。結果は掲示板に
張り出されるのだが、自分の学籍番号を探して、番号を順に目
で追っている時は、実際の大学の合格発表の時のような緊張で
あった。

というのも、医学部においては、必修科目を一つでも落とすと
留年してしまうというルールがあるためである。一度きりで、
留年させるのは可哀想だからと、再試、再再試などやってくれ
る科目もあるようだが、それでも落としてしまうと大きなプレ
ッシャーとなるのであった。

朝授業が始まる前に確認したのだが、周りに不合格の友達が多
く、不安になって授業後もう一度見に行ってしまったほど。


なにはともあれ、合格できてよかったです!ちなみに今年は不
合格者20名ほど。我らがラグビー部は6人中5人が不合格という
奇跡的な結果でした(笑)